開業まで: 昭和十年七月十六日地鎮祭を行い、七月二十五日より工事に着手した。 昭和十一年六月十二日を以って竣工し、六月十三日、十四及十六の三日間、関係各省の大官を初め県当局、その他公職議員諸氏並びに同業関係者一同を招き盛大な落成式を挙行して、十五日より営業を開始した。 戦前から戦後: 昭和十三年のドイツヒトラーユーゲントが青少年相互訪問の一環として来日、このホテルに宿泊している。昭和十九年、独逸人協会借上げ使用のため一般営業を休止した(続日本ホテル略史) 敗戦に伴う物心両面の動揺が未だに収まらず、人心が未だ落着きを取り戻さないでいた昭和二十年九月十六日夜半より大暴風雨となり、十七日午前四時に大旋風が起きて、富士ビュー・ホテルの塔屋二棟共吹き飛ばされた。幸い客人には被害はなく、直ちに假屋根を取り付けて応急処置を施した。 昭和二十年十月一日、突然米軍アメリカ師団の兵二十名が富士ビュー・ホテルに来館して本館地階に駐屯し、十月十五日よりホテルを接収する旨を通告してきた。次いで十月三日にはフィロップ中尉が初代隊長として着任し、ホテルを占領軍専用のレスト・ホテルとして使用するため、独逸大使館員全員を十日迄に他に移住せしめて、ホテル内を清掃した。 接収後の富士ビュー・ホテルの利用者は主として進駐軍の将校で、後に下士官以下の所謂エンリステッド・メンのレストホテルとなった事もあった。将校の家族が日本への渡来を許可される様になってからは、これ等将校の家族もホテルを慰安休養施設として利用する様になった。多くの者は約一週間の休暇を得て保養に来館し、或は又日本へ到着の直後、家族住宅の割当がある迄ホテルに滞在するものもあった。富士ビュー・ホテルに於いては、進駐軍々人用レスト・ホテルとして用いられる様になった関係上、地階の室内運動場を進駐軍利用の酒場に模様替へし、昭和二十一年八月に開場した。ここでは飲み物もはじめは日本ビールのみを扱い、一本五十銭で、之を圓価表示の米軍々票で販売した。後には次第にウイスキー等も仕入れ、徐々に酒場らしい格好を呈するようになった。これ等の仕入れ、輸送、販売はすべて軍の手によって行なわれた。 昭和二十年九月の台風で倒壊した富士ビュー・ホテル本館屋上の展望台は、当時直ちに応急修理はしたけれども、終戦直後の事でもあり補修資材も十分でなかった為、美観上からも満足すべき修理ではなかった。昭和二十一年十二月、漸く本格的な塔屋を仙石工務店の請負で施工し、もとに復することが出来た。 昭和二十七年接収解除となるも、米軍との自由契約により施設貸与を継続した。昭和三十三年契約解除により、三月二十日より一般営業が再開された。 昭和五十三年ジョン・レノン夫妻が宿泊した。 昭和六十年改築後、新規開業。