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 昭和11年河口湖畔に創設された富士ビューホテル。山梨県営のホテルとして富士屋ホテルがその経営を委託され創設された。
 創業時の建物は「近代日本風にして、大部分久米式耐震構造とし、内、地階及一階の一部を鉄筋コンクリートにて構築し建物中央部及びグリルは柱梁共荒磨き又は皮付の松丸太を使用す」(富士屋ホテル80年史)と記述されており、その様子はラベルの図柄で見ることができる。富士を背景に描かれたその個性的な日本建築は残念ながら今日は見ることができない。1985年にはリニューアルされている。
富士ビューホテル
Fuji view hotel
1936.6-
山梨県南都留郡富士河口湖町勝山511
http://www.fujiview.jp/
 日本のホテルラベルの中でも美しいデザインを提供してきたホテルです。ホテルラベルはもとより、これらのタグラベルでもその優れたデザインはここを旅した人にとっても貴重な思い出と共に残しておきたいものと言えるのではないであろうか。
 富士山を眺めるホテルはいくつかある。その中でも、富士ニューグランド、精進ホテルが魅力を感じていたが、どちらも既に無い。その意味でも、このホテルからの富士山は是非見てみたい光景だ。 
 このホテルの歴史に関して「富士屋ホテル80年史」にいくつか記述されているので、ここでご紹介してみたい。
 
ホテル創設に関して:「富士五胡は古くより日本人より寧ろ外人に紹介されていた。言語の不便、宿泊設備の極めて不便であったにも拘らず、毎年幾多の外人が食料品を携行し、案内者を傭って、岳麓探勝の為めその周遊の施行を企てたのである。其の外人の多くは先ず富士屋ホテルに来り、準備を整えて出立するのを常とした。乙女峠を越え御殿場、須走を経て籠坂を越え籠坂を越え吉田に達するまでの間須走又は吉田の何れかに一泊し、夫れより船津に出で河口湖、西湖を渡り精進湖畔精進ホテルに一泊の上本栖湖を経、鰍澤に出で、富士川の急流を下り岩淵に一泊して翌日宮之下に戻る工程は少なくとも四日間を要した。然るに多年の間観光施設は依然旧態の儘で、唯交通機関に於いて、御殿場、吉田間に馬車鉄道の敷設を見たのみであった。尤も該鉄道のレールは欧州大戦に際し、鉄価暴騰の時に外されて屑鉄になってしまった。其の後不完全ながら道路が修築され、自動車の運転により幾分時間的に距離の短縮を見たが、ホテルの設置に関しては官民共に意を用いず、従て折角の勝地も旅行者の足を止めしむることが出来なかった。この時代に於いて精進ホテルは勿論であるが、御殿場の富士屋、須走の米山館及び吉田の刑部旅館等は観光外客接遇に偉大なる功績ありといわなければならない。
 河口湖畔の勝山村には、煙草包装紙の粉本になったという有名な敷島の松がある。又大正十一年、今上天皇陛下及大正十五年瑞典皇太子殿下の御晝餐(ごちうさん)を召された光栄ある鵜ケ島に相対し、表に富嶽裏に河口湖、無二の景勝に恵まれている。此の村民が長夜の夢より覚め、何とかして此の景勝の地を開発したい、それにはホテルの建築が集眉の急務である。ホテルの事ならば、古より岳麓外人誘致に最も関係深い富士屋ホテルに依頼してみようと一決し、昭和六年の或る日、村の有志者多数は山を越え富士屋ホテルに前社長山口正造氏と会見し、村民の希望を熱心に述べた。此の時山口氏は斯様の事業は宜しく県の事業としてやられた方が宜しい、其の熱意を以って山梨県知事に陳情されては如何であるかと、懇篤に話されたので、集合せられた有志は其の言に基づき早速県当局に陳情することになった。之が山梨県営ホテル創設の発端であって、当時山口正造氏は此のことには何らの希望を持たなかった。・・」

 開業まで
 昭和十年七月十六日地鎮祭を行い、七月二十五日より工事に着手した。
 昭和十一年六月十二日を以って竣工し、六月十三日、十四及十六の三日間、関係各省の大官を初め県当局、その他公職議員諸氏並びに同業関係者一同を招き盛大な落成式を挙行して、十五日より営業を開始した。
 
戦前から戦後
 昭和十三年のドイツヒトラーユーゲントが青少年相互訪問の一環として来日、このホテルに宿泊している。昭和十九年、独逸人協会借上げ使用のため一般営業を休止した(続日本ホテル略史)
 敗戦に伴う物心両面の動揺が未だに収まらず、人心が未だ落着きを取り戻さないでいた昭和二十年九月十六日夜半より大暴風雨となり、十七日午前四時に大旋風が起きて、富士ビュー・ホテルの塔屋二棟共吹き飛ばされた。幸い客人には被害はなく、直ちに假屋根を取り付けて応急処置を施した。
 昭和二十年十月一日、突然米軍アメリカ師団の兵二十名が富士ビュー・ホテルに来館して本館地階に駐屯し、十月十五日よりホテルを接収する旨を通告してきた。次いで十月三日にはフィロップ中尉が初代隊長として着任し、ホテルを占領軍専用のレスト・ホテルとして使用するため、独逸大使館員全員を十日迄に他に移住せしめて、ホテル内を清掃した。
 接収後の富士ビュー・ホテルの利用者は主として進駐軍の将校で、後に下士官以下の所謂エンリステッド・メンのレストホテルとなった事もあった。将校の家族が日本への渡来を許可される様になってからは、これ等将校の家族もホテルを慰安休養施設として利用する様になった。多くの者は約一週間の休暇を得て保養に来館し、或は又日本へ到着の直後、家族住宅の割当がある迄ホテルに滞在するものもあった。富士ビュー・ホテルに於いては、進駐軍々人用レスト・ホテルとして用いられる様になった関係上、地階の室内運動場を進駐軍利用の酒場に模様替へし、昭和二十一年八月に開場した。ここでは飲み物もはじめは日本ビールのみを扱い、一本五十銭で、之を圓価表示の米軍々票で販売した。後には次第にウイスキー等も仕入れ、徐々に酒場らしい格好を呈するようになった。これ等の仕入れ、輸送、販売はすべて軍の手によって行なわれた。
 昭和二十年九月の台風で倒壊した富士ビュー・ホテル本館屋上の展望台は、当時直ちに応急修理はしたけれども、終戦直後の事でもあり補修資材も十分でなかった為、美観上からも満足すべき修理ではなかった。昭和二十一年十二月、漸く本格的な塔屋を仙石工務店の請負で施工し、もとに復することが出来た。
 昭和二十七年接収解除となるも、米軍との自由契約により施設貸与を継続した。昭和三十三年契約解除により、三月二十日より一般営業が再開された。
 昭和五十三年ジョン・レノン夫妻が宿泊した。
 昭和六十年改築後、新規開業。