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箱根ホテル
Hakone hotel
1923.6.15-
神奈川県足柄下郡箱根町箱根65
http://www.hakonehotel.jp/

 箱根ホテルの前身は箱根の関所があった時代からの「はふや」が前身でした。昭和33年発行の「富士屋ホテル80年史」にその詳細が記されていました。
 江戸時代から続いていた「はふや」は明治初年の外人旅行記にも常に名の出るホテルでしたが、実際のところ旅館と言うべき施設でした。創立当時から外国人が泊まることが多かったことから「異人館」とも呼ばれていました。創立者高瀬白郎衛門氏から四代目にホテルニューグランドにその名を残した「野村洋三氏」の所有となっていました。この地を将来の有望性を見抜いていた富士屋ホテルの山口正造氏によって買収され、大正12年(1923)に「箱根ホテル」が新たなるスタートを切りました。

大正12年
 
・木造四階建和洋両楼の客室と食堂530坪

大正12年9月1日の関東大震災にて殆ど壊滅
(開業2ケ月で壊滅してしまった)

大正15年漸く本館再築に着手、同年7月15日少数の客室と大食堂を完成した。

昭和5年11月26日 函南周辺を震源とする箱根直下型地震「豆相地震」により再度全壊する

昭和6年5月 二階建延約300坪の第3回目の本館新築を行なうことを得た。

昭和9年4月 別館並びに浴室220坪を新築した

昭和20年戦局が逼迫してきた時、外国外交官等の地方への疎開が増し、箱根ホテルでは200名の疎開学童を本館と別館に充てていた。5月からは海軍省の斡旋で、ドイツ海軍へ賃貸する契約が交わされ、湖畔の別館と地階のグリル食堂が充てたれた。それにより箱根ホテルにおける一般営業は停止した。終戦後10月24日に疎開学童が引き上げたあとは、全館をドイツ海軍に貸与した。昭和22年2月20日にドイツ海軍が引揚げたので3月31日から一般営業を開始した。

進駐軍本体が厚木飛行場に進駐第一歩を記した9月2日、米軍第一騎兵師団の小部隊15名が進駐してきたので、本館二階を之に提供した。この部隊は12月末まで此処に駐在していた。

昭和21年2月14日 ドイツ海軍が使用していた新館二階61号室から失火、木造亜鉛鉄板葺三階建一棟207坪の新館と付属廊下10坪の合計217坪を焼失した。
7月より毎週土曜日と日曜日とに限り、米国憲兵が2名から3名箱根ホテルに駐在することとなり本館第13号室を提供した。

 箱根ホテルは戦前から他のホテル同様ホテルラベルをいくつか発行し、戦後もいくつかのバージョンを作成してきていました。ここではこれらのタグを紹介していますが、どれも同じ丸型で変化の無いものに見えます。これらはどれも昭和26年に完成したスペイン風の建物が描かれており戦後のものだとわかります。
 上のラベルでは手前の昭和6年の建物が無くなり別の建物に変わっています。これが何時の頃なのかは不明です。
 下のタグは戦前によく見られた赤縦型タグで主に旅館のものが多い。これも何時の時代かは不明
 昭和26年における新館増築---
 新館は鉄筋コンクリート三階建ての白亜のスペイン風で、昭和26年5月28日落成した。

戦後多くのホテルが米軍に接収され、昭和27年までその管理下にあった中で、この箱根ホテルは完全なる接収を免れ自由営業をすることができた。

 今日営業している箱根ホテルは平成4年(1992)に新築開業したが、昭和26年のスペイン風を体感することは出来ない。当時のパンフレットなどが無いのでその詳細はまだ知ることができないが、昭和61年(1986)9月号の「太陽」にクラシックホテル特集があり、その中にかつての姿を見ることができる。

 このように箱根ホテルはこの90年近くの歴史の中で何度かの建替えが行なわれその姿を変えてきましたが、それらを間近に見て芦ノ湖を堪能してきたことは、今も昔も変わりません。それらの歴史を踏まえてこの場所を堪能できるのは、、何時のことでしょうか。

 左上の「はふや」時代はほぼ江戸、明治からの宿屋のイメージが伝わってきます。他の2枚はいつの時代の箱根ホテルでしょうか。残念ながら不明です。これまでの歴史を見てみると富士屋ホテルチェーン下の箱根ホテル時代のものではないようです。
 下のパンフレットは箱根ホテル株式会社となった以降のものですが、そこでも「はふや」を併記していました。中央のパンフレットは昭和26年〜昭和36年の間のものです。