江戸時代から続いていた「はふや」は明治初年の外人旅行記にも常に名の出るホテルでしたが、実際のところ旅館と言うべき施設でした。創立当時から外国人が泊まることが多かったことから「異人館」とも呼ばれていました。創立者高瀬白郎衛門氏から四代目にホテルニューグランドにその名を残した「野村洋三氏」の所有となっていました。この地を将来の有望性を見抜いていた富士屋ホテルの山口正造氏によって買収され、大正12年(1923)に「箱根ホテル」が新たなるスタートを切りました。
大正12年
・木造四階建和洋両楼の客室と食堂530坪
大正12年9月1日の関東大震災にて殆ど壊滅
(開業2ケ月で壊滅してしまった)
大正15年漸く本館再築に着手、同年7月15日少数の客室と大食堂を完成した。
昭和5年11月26日 函南周辺を震源とする箱根直下型地震「豆相地震」により再度全壊する
昭和6年5月 二階建延約300坪の第3回目の本館新築を行なうことを得た。
昭和9年4月 別館並びに浴室220坪を新築した
昭和20年戦局が逼迫してきた時、外国外交官等の地方への疎開が増し、箱根ホテルでは200名の疎開学童を本館と別館に充てていた。5月からは海軍省の斡旋で、ドイツ海軍へ賃貸する契約が交わされ、湖畔の別館と地階のグリル食堂が充てたれた。それにより箱根ホテルにおける一般営業は停止した。終戦後10月24日に疎開学童が引き上げたあとは、全館をドイツ海軍に貸与した。昭和22年2月20日にドイツ海軍が引揚げたので3月31日から一般営業を開始した。
進駐軍本体が厚木飛行場に進駐第一歩を記した9月2日、米軍第一騎兵師団の小部隊15名が進駐してきたので、本館二階を之に提供した。この部隊は12月末まで此処に駐在していた。
昭和21年2月14日 ドイツ海軍が使用していた新館二階61号室から失火、木造亜鉛鉄板葺三階建一棟207坪の新館と付属廊下10坪の合計217坪を焼失した。
7月より毎週土曜日と日曜日とに限り、米国憲兵が2名から3名箱根ホテルに駐在することとなり本館第13号室を提供した。
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