中国のホテル
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満州のホテル
大連ヤマトホテル
星ケ浦ヤマトホテル
1907(明40)-1945
大連市
1910(明43)-1945
大連 星ケ浦
MAP
満鉄創業に当たってとりあえず既存のダルニーホテル跡を利用し大連ヤマトホテルとして開業。2年後に満鉄本社移転跡に移転した。現在大連賓館としてその往時の姿を留める大連中央広場に新築移転したのは1914年(大正3年)の時である。
大連の繁栄を増進して星ケ浦を開発。ホテル開業の翌年にはホテル前の海岸線を海水浴場として開業しました。本館以外にも貸別荘(バンガロー)もあり、大正14年には本格的なゴルフコースも出来た。リゾートホテルとして多くの外国人が利用していた。大連から車で10分程の位置にあった。
長春ヤマトホテル (のち 新京)
奉天ヤマトホテル
1908(明41)-1945
長春
1910(明43)-1945
奉天
開業当初は東新鉄道長春倶楽部の建物に応急施設を加えた10室ほどのものであったが、すぐに改築を加え明治43年に本格的に開業する。ここには後の帝国ホテルの犬丸徹三氏がホテルマンとして修行したところで、当時のマネージャーは岩下家一(東郷平八郎の甥であり、後に逗子なぎさホテルを開業)であった。長春は1932年の満州帝国建国と同時に新京と名を一時改めた。
明治43年7月の奉天駅舎の新築と同時に最上階及び階下の一部をホテルに充て、所謂ステーションホテルとして10月から開業。ここも客室12と狭く、大正15年に中央広場に新築ホテル開業に向け着工。昭和4年に落成し5月よりこの地で開業した。建物は近世復興式鉄筋コンクリート白亜5階建客室71を有していた。現在も遼寧賓館としてその姿を留めている。
旅順ヤマトホテル
旅順ヤマトホテル 黄金台
1908(明41)-1945
旅順
1929(昭4)-1945
旅順 黄金台
日露戦争の激戦地として有名な旅順は大連から60キロ、普通列車で1時間20分ほどの距離のところにある遼東半島突端の地である。明治41年大連ヤマトホテルに次いで開業されたホテルでした。当初は旅順新市街にあったロシア時代の未完成の建物を借り受け改修をし客室15で開業したものである。大正14.15年に大改修をして施設の改善を図ったものの、満州事変後関東軍が新京に移ってからは経営に影響し、後は黄金台に主力を注ぐようになった。
夏期6月から9月の営業で、眺望絶景、避暑に理想的なホテルでした。大正7年旅順民生署から黄金台別荘の経営を引き受け、8年に食堂を設けて出張所を開設。昭和4年に改築を加え客室16として本格的に営業を開始していた。
ハルビンヤマトホテル
撫順炭鉱ホテル
1937(昭12)-1945
哈爾濱
撫順
明治36年にハルビン駅前に東新鉄道ホテルとして建てられ、いくつかの施設として使用されてきた。昭和11年の北満鉄道買収により満鉄所有となり、翌12年に客室56のホテルとして開業した。今日は龍門大厦貴賓楼として営業が続けられている。
このホテルに関してはまだ詳細を知ることができない。撫順には筑紫館の名が残っているが、このラベルには満鉄のマークが使用されていることから、満鉄のホテルチェーンの一つではないかと。
五龍背温泉
当温泉は大正7年6月個人の経営を社に於いて買収し、更に助成旅館として貸付経営中のところ、昭和5年7月旅館会社をして直営せしめ、同6年4月の社還元と同時に名実ともに社直営となった。(南満州鉄道30年史)
1930(昭5)-1945
五龍山
撫順 筑紫館
元撫順千金寨舊市街に経営中のものを採炭の都合上昭和元年末この位置に移転さしめられ、中村富枝名義で開業したのが始まりで、その後経営不如意に為已む無く昭和4年4月旅館会社において一切を買収し同社の直営とし、便宜上前経営者をあたらしめたが、6年4月に奉天ヤマトホテル支配人兼務となった。(南満州鉄道30年史)
1929(昭4)-1945
撫順
北平 扶桑館
当館は明治39年個人の創業で大正14年11月当時経営難であった関係上建物その他を社において買収貸付をなし助成経営にあたらしめたが、好転せず昭和4年9月旅館会社に買収せしめ、6年4月同社の直営とした。
(南満州鉄道30年史)
1931(昭6)-1945
北京
壺蘆島ホテル
「南満州鉄道30年史」には詳細な記述がない。
1934(昭9)-1945
葫芦島市
(ころとうし)
興城温泉ホテル
「南満州鉄道30年史」には詳細な記述がない。
1934(昭9)-1945
興城
斉斉哈爾鉄路ホテル
「南満州鉄道30年史」には詳細な記述がない。
1936(昭11)-1945
斉斉哈爾
(チチハル)