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ヤマトホテル
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大連ヤマトホテル
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 左の丸型のラベルは直径11cmもある大きなものです。満鉄マークが中心に配置しているだけにとても目立つラベルとなっている。右のアールデコ風ラベルはヤマトホテルラベルの中でも是非手にしたいラベルの一枚といえよう。グレーっぽく見えるのは銀刷りである。裏面には糊が施され、大小のサイズがあります。大連ヤマトホテルのラベルはこの2枚しか今のところ確認できていません。
 「創業にあたって会社は取りあえず元ダルニーホテル跡(我軍政時代の民政署)であった煉瓦造二階建て一棟を修理して客室13を造り理髪所及び郵便電信取扱所を隣接地に新築し、又附属建物を修繕して球技室・酒場として急遽必要限度の設備を整え明治40年8月1日漸くその営業を始めた。然るに忽ちにして狭隘を告ぐるに至ったので、同42年満州本社移転の跡を改修して客室36室を造り、44年欧亜聯絡開始と同時に社宅用建物二棟に設備を施し客室8室を増加し合計58室としたが、いづれも大ホテル建設までの姑息的手段に過ぎなかった。
 会社は大規模の旅館建設を計画し大連の中央大広場に面した地区を選び、明治42年6月工事に着手し大正3年3月竣工同年8月営業を開始した。建物は近世ルネッサンス式四階建て、建坪649坪(工費90余万円)客室115を有し一切の設備は当時欧米ホテル洋式の粋を集めたものであった。
 
かくて昭和3年に至り従来の社直営を旅館会社の経営に移したが、昭和6年4月旅館会社は解散せられ会社直営に還元した。」(南満州鉄道株式会社三十年史より)
 
 40年近くの間には数多くの人達がこのホテルから満州を楽しんでいたに違いありません。夏目漱石もこのホテルを訪れていました。1909年(明治42年)のことだったそうです。その時は満州本社移転後の建物でした。
 大連郊外の風光明媚な海岸を観光開発して開いた星ケ浦ホテルは大連ホテル開業後すぐのことでした。大連から14キロ程度の距離でしたから、この大連ヤマトホテルからも訪れた人は多かったことでしょう。其の後も開発が続き、大連と共に代表的なヤマトホテルでした。
明治40年に大連ヤマトホテルとして開業したのは、ロシア統治時代のダルニーホテルを利用しました。2階建ての
このホテルも2年間のみの営業ということから、以上の絵葉書はその頃の珍しいものです。
2度目に移った旧満鉄本社の絵葉書はありませんが、これらの絵葉書の姿は今も同じ姿をみることができる中央大広場に建てられたもので、完成したのは大正3年3月のことで8月から開業されました。古い絵葉書をみるとよく見られる、ホテルを背に立つ銅像は日露戦争時に関東総督に就任した大島義昌大将のものです。